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まあ様々なことがあったが、とにかく最強感が出てきた。
こういうタイトルのほうが検索エンジンに拾われないから良いような気もする。
しかしながら、何となく自分に許可していないものをもっと掘り下げるほうがいいな。
たぶん、もっと自由に論理から離れて暮らすのがいい。
むかし、15年位前、ものすごい現象の展開が起こった。
実際何でもありだ。
「制限などない」
まさにそれを体現したような現実だった。PR -
一応除外はされていないみたい。究極的にはインデックス除外されていてもいいけどなぁ。
その方がいい、その方が良い。
レスポンシブのテーマに変えてみた -
「あの時、失敗さえしなければ、今の自分はもっと違っていたはずだ」 「どうせまた、あのような惨めな思いをするに決まっている」過去の失敗体験が心に深く刻まれ、それが現在の行動を縛る「トラウマ」となり、最終的に強固な「劣等コンプレックス」へと変貌する――。この負の連鎖は、多くの人が抱える悩みです。なぜ、たった一度の失敗が、人生全体を否定するような劣等感へと膨れ上がってしまうのでしょうか。 今回は、過去の失敗体験がトラウマ化し、劣等コンプレックスとして定着してしまう心理的メカニズムと、その呪縛を解くための視点について解説します。「あの日の失敗」が今のあなたを縛る理由:トラウマと劣等コンプレックスの蜜月関係1. 「行為の失敗」を「存在の失敗」にすり替える罠失敗体験が劣等コンプレックスに変わる最大の要因は、心理学でいう「過度の一般化(Overgeneralization)」にあります。本来、失敗とは「ある特定の行動が、ある特定の状況で上手くいかなかった」という事実(出来事)に過ぎません。 しかし、心に傷(トラウマ)を負いやすい人は、この事実を拡大解釈してしまいます。事実: 「今回のプレゼンで噛んでしまい、笑われた」一般化: 「私は話すのが下手だ」存在の否定: 「私は人前で恥をさらす、ダメな人間だ」このように、「やり方が間違っていた(Doing)」という反省で留めず、「私という人間に価値がない(Being)」という人格否定に結びつけてしまうのです。 たった一度の失敗が、「私は〇〇ができない人間だ」というレッテル(自己定義)に変わり、それが劣等コンプレックスの核となります。失敗体験が強烈であればあるほど、そのレッテルは強力な接着剤で心に貼り付き、剥がせなくなってしまいます。2. トラウマによる「時間の凍結」強烈な失敗体験(恥、恐怖、挫折)は、脳の扁桃体を刺激し、記憶を強烈に焼き付けます。これがトラウマです。 トラウマの恐ろしい点は、「過去の出来事を、まるで今の出来事のように感じさせる」点にあります。10年前の失敗であっても、それに触れようとすると、当時の動悸や冷や汗、恥ずかしさが鮮明に蘇ります。 心の中で時間が止まっているため、「今の自分なら対処できるかもしれない」という成長の可能性を考慮できません。「あの時の無力だった自分」のまま、現在の課題に直面していると錯覚してしまいます。この「更新されない自己イメージ」が、慢性的な劣等コンプレックスを維持し続けます。「自分はあの時から変わっていない=劣ったままだ」という思い込みが、現実の行動を阻害するのです。3. 劣等コンプレックスという「防御服」アドラー心理学の視点を取り入れると、さらに残酷な真実が見えてきます。 人は時に、無意識のうちに**「これ以上傷つかないために、劣等コンプレックスを利用する」**ことがあります。過去の失敗体験があまりに痛かったため、脳は「二度とあんな思いをしたくない」と防衛本能を働かせます。そこで、「自分には能力がないから無理だ」という劣等コンプレックスを盾にするのです。「私には才能がない(というコンプレックスがある)から、挑戦しない」「過去にトラウマがあるから、できなくても仕方がない」こうして自分を「劣った存在」と定義しておけば、新たな挑戦を回避する正当な理由が得られます。挑戦しなければ、失敗もしないし、傷つくこともない。 つまり、過去の失敗体験を根拠にした劣等感は、「現状維持のための安全装置」として機能してしまうのです。これが、劣等コンプレックスがなかなか解消されない最大の理由です。苦しいはずの劣等感が、実は自分を守ってくれているという矛盾した構造(疾病利得)がここにあります。4. 学習性無力感との関連「何度やっても無駄だった」という経験の繰り返しも、深刻な劣等コンプレックスを生みます。これを「学習性無力感」と呼びます。努力が報われない経験や、理不尽な理由で否定された経験(理不尽な叱責、いじめなど)が積み重なると、人は「自分の行動によって結果を変えることはできない」と学習してしまいます。 これが定着すると、客観的には成功できる能力を持っていても、「どうせ自分なんて」と最初から諦めてしまうようになります。 これは能力の欠如ではなく、「自分には状況を変える力がない」という誤った信念による劣等感です。過去の「どうにもならなかった記憶」が、未来の可能性を塗りつぶしてしまうのです。結論:過去の「事実」と「解釈」を切り離す過去の失敗体験とトラウマが劣等コンプレックスを作るプロセスは、自己防衛の一つであり、ある意味で人間として自然な反応です。しかし、その「守り」が過剰になり、あなたの人生を窮屈にしているなら、その鎧を脱ぐ時です。重要なのは、**「失敗したのは『方法』であって、『私自身』ではない」**と切り分けることです。あの時は、準備が足りなかっただけかもしれない。あの時は、環境が悪かっただけかもしれない。あの時は、まだ若くて未熟だっただけかもしれない。過去の失敗は、あくまで「その時のデータ」に過ぎません。「今のあなた」の能力や価値を決定づけるものではないのです。トラウマによる「恐怖」を感じたとき、「これは過去の幽霊だ」と気づいてください。「怖がっているのは、あの時の子供の自分であって、今の大人になった自分ではない」と言い聞かせてください。過去の失敗を「自分のダメさの証明」として使うのをやめ、「次はどうすれば上手くいくか」という「ただの経験データ」として扱い直すこと。 その解釈の転換ができた時、過去の呪縛は解け、劣等コンプレックスは「慎重さ」や「改善への意欲」というポジティブな力へと昇華されていくはずです。
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今日はどんな一日?
ということを娘に聞かれるのが少し辛い。
時間と自由はあるが、特に誇れることをしていない。
そんな気がする。
何もしていないことはない。
でも、何にもなっていない。 -
とにもかくにも一難去ってまた一難感がある。
そういう情報を壊したい。というより壊す。
何のために頑張るのだろうという気分が毎日続く。
何のためにということはないが、他人に吸い取られている気がする。
やったあとに自分には何も残らない。
それどころか痛みがやってくる。
単純に言うと
1000円募金して殴られるような気分だ。
頭がかゆい。
そしていろいろとやってみるが、
結果は出ない。
やればやるだけ損した気分になる。
とにかくそんな気分をどんどんと出していこうと思う。
集客界隈では、動画が盛り上がっているようだ。
実際に集客効果があるわけではない。
でも期待値だけで盛り上がっている。
本当に効果が出る場合もあるが、極めて個人向けによっているものに限定される。
この期待値はどこから来るか?
簡単だ。
何をやっても響かないからだ。
5分ネタを5分で作れるわけはない。
そんなことを松本人志が言っていた。
でも世の中のコンテンツ消費速度は速く、
出してもすぐに消費されて終わる。
そして良いものを丹念に作っても、
AIで模倣したようなものに追い抜かれる。
結局数が勝負のようなことになる。
それか、極めて自分を抑えてトレンドに合わせるかだ。
可処分時間をどれだけ奪うか、というようなことが話題になる。
つまり、自分は1時間費やしたとして、他人の時間を合計で100時間奪うものが勝者のような世界。
これは、世の中の人をタップさせるだけの人生になる。
で、何だ?
その先に何がある?
かといって、まともな話は通じない。
普通の文を読み解けない人が増えているからだ。
それどころか、簡単操作のUIを組み込んで、さらに褒めないとその次にも進まない。
完全なるスマホ依存、脳が壊れている。
しかし、そうした人ばかりになると、狂っているのは自分のほうだとみなされる。
このような世の中に、生きる意味を見いだせない。
それが本音だ。 -
4つだけインデックスされてるみたい。
まあそれくらいでいい。
別に人に来てほしいとは思わない。
AIで世の中がつまらなくなったな。 -
腹の減りへの気付き。
どうせYMYL系だとかいって評価を落とされるかもしれない。まあいいだろう。
頭の中がかゆいと思ってどうしようかと思ったが、
とりあえず飯を食った。
昔からだがPC作業をすると腹の減りを忘れる。
食べたらマシになるかなと思ってとりあえず食った。
ドラッグストアでも売っているような安物のハンバーグだ。
まあそれでもエネルギーはかなり充填されるだろう。
何をするにもエネルギーが必要になる。
そして休息も必要になる。
PCやAIやスマホはそうしたことを忘れさせる。 -
一応表面的には「インデックス登録されていないとリンク元として扱われない」という感じになっているのだろうか?
まあそんな感じなんだろう。
自分の頭をまとめるためにブレインダンプ的に書いていくさ。
とにかく何となく頭がかゆいんだ。
ちょっとした睡眠不足とか睡眠の浅さもあるだろうけど
こういうのは情報状態だ。
AIを使うと大したことをしていない感じながら、
速読的に情報自体はインプットされるから、
意外と意識が混乱するんだろう。
なのでアウトプットをしたほうがいい。
検索エンジンに相手にされようと考えると、
ページの論理一貫性とか、テーマ一貫性が求められるのかもしれないが、
乱文の中にこそ、本質が隠れていることもあるしな。
何となくそうした合理化だけの追求が、
面白くもないし、創造性や思考力を奪っていくと思う。
ひとが心底考えて作り出したものでも
AIで解析されてリライトされて吐き出されたら、
やったものが損をする、作り出したものが損をするということになる。
誰かがすごいものを出すのを待って、
それを出した瞬間にリライトして、分量を増やして成果を奪うということが
平気で起こっていくだろう。
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ここは本家で語れないゴミ捨て場的機能がある。
といっても本家で語ってもいいんだけど。
Xとかは炎上するじゃない?
だから、ドメインが弱くてしょぼすぎる忍者でやるわけだ。
でも見られてもいいけど。
最近はAIでガンガンコンテンツが量産されていて、
ちょっとした文は「ほぼ価値なし」になってきている。
いや、本質的に価値がないわけではないんだけど。
むしろ本質的には価値があるんだけど。
つまらん時代になったなぁ、と思いつつ、一応Googleは対策をしてるみたい。
それでもGPTへの対抗として、AI Overview出すようにしてるからな。
ゼロクリック。
まあそれはそれで全部のサイトが玄人好みになるか…
最近は猫も杓子もスマホスマホで、1秒でも長く使ってもらうためにアプリ化。
まあアプリなら、ロゴくらいはたまに見られるしな。
それくらい人の意識の奪い合い。
…
ここはゴミ捨て場といえばゴミ捨て場だけど、たたき台と言えばたたき台なんだ。
うねる情報をいったん目の前に並べる。
そしてそれから本家でちゃんとまとめるって感じ。
これ、本当に手打ちで打ってるけどさ。
世界には何のやくにもたたんのだろう。
でも、個人的にたたき台としての価値があれば、それでいいかなとも思ってる。 -
忍者ブログなのによくインデックスされてるな、と思う。
SEO面が弱すぎ。ドメインが弱すぎ。そしてテンプレがしょぼい。
どうしょぼいかって、それは最近のSEOに必要な要素がない。
ドメインの弱さもあるけどな。
たいていインデックスから除外される。
代わりにライブドアは強いな。
まあいいや。
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あいつはあれだな。「うまくいっている人への僻み」だな。
それを長居すんなって論調に変えて当たっているだけ。
本人が自己啓発本を店内にも置いて、
さらに成功者(笑)になろうとしているけどうまくいかない。
それを実現している人たちが目の前に現れて僻み炸裂。
あれは障害。糖質。そして性格が悪い。
根底には支配欲があるんだ。
でも何者にもなれない。
押し付けがましいメッセージを店内に散りばめて、
すごい人だと思われたいというものを表現している。
あげく、僻み。
「自己啓発語るならわかるでしょ」
は? -
たまたま夢をかなえるゾウの水野敬也氏の話をしてたんだ。
そしたら長居すんなってさ。そんなにしてないけどな。
「自己啓発語るならわかるでしょ」
となぜか自己啓発と言うワード。
完全に糖質。 -
京都の某クソちゃんぽん屋は完全に糖質。
体育会系で努力するのは好きなのだろう。
ただ、本質的には承認欲求と支配欲の塊。
教員を目指すというのは、結局大人に相手にされないから
子どもなら支配できるだろうという予測。
糖質。 -
妖怪って言葉を聞くと、多くの人が「子どもの頃に見た妖怪図鑑」や「ゲゲゲの鬼太郎」みたいな作品を思い浮かべると思うんですよね。でも実は、日本の妖怪ってただの空想上のキャラクターではなくて、歴史や民俗学の中でちゃんと研究されてきた対象なんです。学問としての妖怪研究、いわゆる妖怪学っていう分野もあるくらいで、大学で講義が行われたり、本がたくさん出たりしています。まず有名なのは、やっぱり江戸時代から残っている妖怪絵巻や随筆です。鳥山石燕の「画図百鬼夜行」なんかは今でも妖怪図鑑の元祖として知られているし、あの時代の人たちにとって妖怪は「恐怖」と「娯楽」の両方を兼ねた存在だったんですよね。夜道を歩くと出るって言われていたり、水辺に近づくと危ないと伝えられていたり。つまり妖怪は、自然や生活の中での危険を物語として伝える役割を担っていたわけです。それが近代以降になると、本格的に民俗学の研究対象になっていきます。柳田國男が「遠野物語」で語ったように、妖怪や怪異の話は地域の生活や信仰と切り離せないものとして扱われました。妖怪を単なる「迷信」として片づけるのではなく、人々の暮らしの中でどういう意味を持っていたのかを記録していったわけです。例えば「河童に引きずり込まれる」という話も、子どもに水辺の危険を教えるための戒めだったのかもしれないし、「座敷わらし」の話は家の繁栄を象徴する存在だったのかもしれない。そう考えると、妖怪って単なる恐怖の対象じゃなく、人々の知恵や願いが形になった存在とも言えるんです。現代に入ると、水木しげるが妖怪を再発見し、庶民文化として広く世の中に紹介しました。水木しげるの妖怪画って、どこかユーモラスで怖いだけじゃなく愛嬌があるんですよね。これが現代人にとって妖怪を「親しみやすい存在」として定着させた大きな要因になったと思います。そしてそれ以降、研究の世界でも「妖怪は人間の想像力の文化的な表現」という見方が強くなり、民俗学だけじゃなく文学研究や社会学の分野からも扱われるようになっていきました。最近では、妖怪はポップカルチャーの中でも重要な存在になっています。アニメやゲーム、観光資源としての活用なんかもそうですよね。例えば「妖怪ウォッチ」なんてタイトルそのものが妖怪研究へのオマージュでもあるし、地方では「妖怪の里」として町おこしをしている場所もあります。学問的にも、「妖怪は現代社会でどう受け継がれ、変化しているのか」という新しい研究が出てきています。SNS時代になると「都市伝説」や「ネット怪談」も妖怪の現代版と見なせるし、昔の怪異が形を変えて生き続けているって面白いですよね。ただ、妖怪研究が面白いのは、「本当に存在するかどうか」じゃなくて「なぜ人は妖怪を生み出したのか」「どんな意味をそこに込めたのか」を考えることにあります。だから妖怪を研究するっていうのは、人間そのものを研究することでもあるんですよ。恐怖や畏怖、自然への敬意、社会的なルール、家族や地域の願い。それらが妖怪というかたちで表現されてきた。そう思うと、妖怪は日本文化の鏡のような存在なんです。こうやって雑談みたいに話していても、妖怪研究って意外と奥が深くて、学問としての体系と、大衆文化としての楽しさの両方を持っているのが魅力だと思います。だから今でも本屋に行けば妖怪の専門書が並んでいるし、学者が真面目に論文を書いているし、一方で子どもたちがゲームで遊んでいる。江戸から現代まで、妖怪はずっと人々と一緒に生きてきたんですよね。
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哲学っていう言葉を聞くと、多くの人が「難しい」「よくわからない」「頭の良い人がやるもの」というイメージを持つと思います。実際その通りで、特に西洋哲学の世界は、専門書を一冊開いただけで意味が取れない言葉の洪水に飲み込まれるような感覚になることが多いんです。例えばカント。哲学をかじった人なら一度は名前を聞いたことがあると思いますが、彼の代表作である『純粋理性批判』なんて、最初のページからして抽象的で、読む側の頭を容赦なく試してくるような本です。
哲学 philosophy
なぜそんなに難しいのかというと、そもそも哲学が扱っているのは「人間の理性」「世界の成り立ち」「真理は存在するのか」という、日常生活で答えが出ない大問題だからです。たとえば科学なら「実験をすれば結果が出る」し、数学なら「証明すれば正解が確定する」んですが、哲学はそう簡単には片づきません。同じ問いをソクラテスが考え、プラトンが考え、アリストテレスが考え、その後も中世の神学者や近代の哲学者たちが延々と受け継いできたわけです。つまり「終わりのない問い」をあえて相手にする学問なんですね。カントが難しいとされるのは、その問いに対して「人間の理性がどこまで可能で、どこからが不可能なのか」という境界線を真剣に見極めようとしたからです。例えば「私たちが世界を知るとき、その世界は本当に“そのままの姿”で存在しているのか、それとも人間の頭の中で加工された姿しか見えていないのか」という疑問があります。カントは「物自体」という概念を立てて、それは人間の認識の枠を超えて存在しているけれど、私たちは決してそれを直接知ることはできない、というような結論を出しました。これは直感的には理解しづらいけれど、確かに考えてみれば、人間の五感や思考というフィルターを通さないで“純粋な世界”を見ることなんてできないんですよね。ただ、こういう議論は言葉のレベルで非常に繊細で、ちょっとでもニュアンスを誤解するとまるで違う意味になってしまいます。哲学者たちはそのリスクを避けるために、独特の用語や、非常に厳密な論理展開を使うので、読む側としては「翻訳を二重に読まされている」ような気分になるんです。ドイツ語の原文を読めばもっと難しい。だから「哲学は難しい」という印象がどんどん強まってしまうわけです。でも、難しいからといって無意味かというとそうではなくて、カントの思想は後の哲学や社会の考え方に大きな影響を与えています。例えば「自由とは何か」「人間の尊厳とは何か」という議論は、現代の人権意識や法律の考え方にもつながっています。つまり、哲学は一見すると実用性がないように見えて、実は社会の根っこを支えているんです。ただしその影響は時間をかけてじわじわと現れるので、現代人からするとピンとこないことが多い。これもまた哲学が「難しい」と感じられる理由のひとつだと思います。西洋哲学の難しさは「テーマが根本的すぎる」「言葉が抽象的すぎる」「結論がすぐには出ない」という三重苦にあると言えるでしょう。けれど、その難しさを少し我慢して向き合うと、自分の考え方の枠組みが広がるような感覚が得られるのも事実です。哲学を読むことは、知識を増やすというよりも、自分自身の考える力を鍛えるトレーニングに近いのかもしれません。だから「カントは難しい」と思いながらも、彼の本を開く人が絶えないのは、その背後に「人間とは何か」という終わりなき問いが、私たちを引きつけ続けているからなのだと思います。 -
会社のホームページを見ていると、最近は「社員紹介」や「スタッフの声」といったページを作っているところが増えてきていますよね。ぱっと見ではすごくいい雰囲気が伝わるし、実際に顔が出ていることで安心感も生まれます。採用を考えている人にとっては「この会社はこんな人たちと一緒に働くんだ」とイメージしやすいし、お客さんからしても「ここは信頼できそう」と思ってもらえる効果があります。ただし、ここでよく考えないといけないのは、顔を出すのが役員ではなく、一般の社員である場合です。役員は会社の看板として公に名前や顔を出す立場だから、多少のリスクは仕事の一部として受け止めていることが多いです。でも、一般社員はそうではありません。入社して数か月の人、契約社員、アルバイト、パートといった立場の人まで顔を出してしまうと、予想以上に大きなリスクを背負わせることになってしまうのです。一番わかりやすいのは、やっぱりプライバシーの問題です。ホームページに一度顔写真を載せたら、それは半永久的にネットに残ることになります。会社が削除しても、検索エンジンのキャッシュや、アーカイブサービス、あるいは第三者が保存して拡散してしまう可能性はゼロではありません。本人が退職して「もう消してほしい」と思っても、完全に消える保証はないんです。これが役員なら「しょうがない」と割り切れる場合もありますが、一般社員にとっては人生における大きな負担になることもあります。そして今の時代は、写真の悪用リスクが一段と高まっています。昔なら単に写真をコピーされる程度でしたが、いまはAIによる画像生成やディープフェイク技術が進んでいるため、顔写真さえあれば本物そっくりの動画や別シーンに合成されることが可能になってしまいました。無断で広告に使われたり、なりすましアカウントのアイコンにされたりすることも十分に考えられます。もし詐欺に悪用されたら、本人だけじゃなく会社自体の信用も大きく損なわれますよね。退職後の扱いも大きな問題です。社員紹介ページに載っていた人が退職したとき、その写真をすぐに削除できるかどうか。役員なら退任の発表などがあるので自然に整理されますが、一般社員は忘れられてしまうことが多いんです。結果として「この人まだ在籍している」と誤解されるケースも出てきます。退職した本人からしても「もう会社と関係ないのに、顔が出たまま」という状況は望ましくありません。場合によっては法的に削除を求められることもあり、トラブルに発展する可能性もあります。さらに怖いのは、サイバー攻撃や詐欺のターゲットにされることです。社員紹介ページにフルネームと部署や役職まで載せてしまうと、そこからSNSアカウントを突き止めたり、住所や過去の情報を探し出されたりすることがあります。「営業部の〇〇さん、先日の展示会でお会いしましたよね」といった電話やメールで騙されるケースもあります。実際に企業を狙った標的型攻撃メールでは、社員の名前を騙ったメールがよく使われています。顔と名前が公開されていると、悪意のある第三者からすれば格好の材料になってしまうんです。心理的な負担も侮れません。ホームページに顔が載ると、お客さんから「サイトで見ました」と声をかけられる機会が増えます。営業職ならそれがむしろ仕事にプラスに働くこともあるかもしれませんが、経理や総務のように直接顧客対応をしない社員にとっては、ただのプレッシャーになります。
しかもネット社会では、顔が知られることで全く関係ない人からSNSで声をかけられたり、写真を使ってからかわれたりすることだってあります。本人が内向的な性格ならなおさら、仕事とプライベートの境界を壊されるようなストレスを抱えるかもしれません。会社としても、リスクを軽く見てはいけません。社員の顔写真を載せる場合は、必ず本人の同意を得る必要があります。しかも「口頭で了承をもらったから大丈夫」では足りません。後から「そんなの聞いてない」と言われたときに証拠を出せるように、書面やメールなど残る形で同意を取るべきです。
これを怠ると、肖像権の侵害として訴えられる可能性だってあります。企業側は「宣伝のつもりだった」と言っても通用しません。社員の権利を侵害したことになれば、会社の責任問題に発展します。ではどうすればいいのか。顔出しを全面的にやめるのも一つの方法ですが、それだと温かみが伝わらないとか、採用活動に不利になると考える会社もあるでしょう。そういう場合は、リスクを減らす工夫が大事です。たとえば顔写真は集合写真の一部だけにするとか、名前は苗字だけにして個人を特定しづらくする。もしくはイラスト風に加工してリアルさを和らげる方法もあります。また「顔を出すのは任意です」というルールを明確にして、希望する人だけが掲載されるようにするのも重要です。さらに、退職時には必ず顔写真を削除する仕組みを作っておくこと。これをルール化しておかないと、削除漏れが起きてトラブルにつながります。また、無断転載を防ぐために写真に透かしを入れる、解像度を下げるなどの方法もあります。完璧に防ぐことはできなくても、悪用されにくくする工夫はできます。役員と一般社員の立場の違いをしっかり認識しているかどうかがポイントです。役員は会社の顔として出るのが仕事の一部ですが、社員はそうではありません。本人が「顔を出したい」と思っているなら問題ないですが、嫌がっているのに会社の都合で無理に出させるのは大きなリスクを生みます。企業は短期的なイメージアップだけを考えるのではなく、社員一人ひとりの将来やプライバシーを尊重する姿勢を持つべきです。会社がこれから社員紹介ページを作ろうとしているなら、単に「写真を載せたら雰囲気が良くなるよね」という軽い発想ではなく、「本当に本人が納得しているか」「辞めたときにどう対応するか」「悪用されたらどう守るか」という具体的な想定を持って準備することが欠かせません。社員にとって安心できるルールがあれば、顔出しのメリットを活かしつつ、リスクを最小限に抑えられるはずです。社員の顔出しは諸刃の剣なんです。うまく使えば会社の魅力を伝える強力な手段になるけれど、安易にやれば大きなトラブルの火種にもなる。その違いを分けるのは、会社がどれだけ社員を大切にし、リスクを真剣に考えているかにかかっています。
ホームページに顔写真や実名掲載は必要?信頼を築く別の方法 -
「世界からカツアゲされる男」おそらくこの1年の僕を一行で表現すればそのような言葉が一番似合います。金銭はもちろん、時間、気力、体力、ありとあらゆるものをカツアゲされています。時折ビートたけし氏が出てきて「世界からカツアゲされる男。誕生日にもらったのは母の絶叫でした。さあこの次はどのような行動が、どのような裏目に出るのでしょうか?」と語ってくれます。全てにおいて共通しているのが、「僕のせいではない」という点です。昨年末にしても頭のおかしいヘルパーが母を興奮させたので、帰らさざるを得ないということになり、その割に「代わりがいない」などとぬかされて看るものがいないため絶叫を浴びにいったわけです。支払いの関係で妻の携帯電話は僕の名義なのですが、その手続に同席しに行った時に、店員が「クレジットカードの営業」をしてきたので断ると睨んでくるんです。僕が契約したいわけではないんです。なのに睨まれるのは僕なんです。―銀行から資金調達しようとすると、法人登記をしている実際の物件住所は不動産登記上少し番地が違うので登記住所を変更しろと言われたりもしたんです。登記変更には3万円もかかります。それにいろいろな登録情報、表記の変更も必要になります。嫌だと言ってやりました。支店長さんの配慮で登記変更は不要になりましたが、このときもカツアゲされかけたんです。さらに、仕事が遅いので事業年度が変わり、納税証明を二回提出されられたりもしました。相手の仕事が早ければ、前年の分だけで良かったんです。相手がダラダラしているから、事業年度が変わり、最新の証明が必要になってもう一枚発行させられたんです。微々たるものですが、これもタダではないんです。―家にもきちんとお金を入れているんです。でも、何故か引き落としが間に合わなかったみたいなことが連続しました。おかげで何度も納付書で数万円払うことになりました。人にお金の管理を任せられません。信用して任せたいですが、結果はそんなもんです。―そういうのが自分の注意不足等々ならば責任も感じることができるんです。でも、ほとんどというかすべてにおいて、僕のせいではないんです。僕はできることをすべてこなしているはずです。それでも他人の失敗やズボラ、注意不足のツケが最終的に僕に回ってくる、と。つまり、「世界からカツアゲされる男」です。それで色々と見渡しましたが、総合的に勘案すると、そのカツアゲされたものは最終的にどこに行くのか、何が原因かという点を考えれば、スマホ依存です。依存させるように手を貸している脳科学者などもいるようです。「いらない場合はチェックしてください」と書いたらいいですよ、などというこぜこいテクニックを推奨する行動経済学や、そうした脳科学者が、人々の時間と気力とドーパミンを奪っていきます。それで頭が湧いて、結局そうした者に汚染されていないものがツケを払うんです。そしてツケを払った上で、ツケを払わせた方は何をしているのかというとスマホです。ツケを払ってもらった分、何かで返そう、などという気はありません。しんどいから手伝ってくれと言われて、一生懸命やっているのかなと思ってみると、じつは違うんです。人にやらせて、自分は浮いた時間でスマホを触りたいんです。別に環境がスマホオンリーというわけではありません。父にしても、ちょっと部屋を除くと謎のネット右翼系YouTubeを流しっぱなしにしていました。頭のおかしいヘルパーの頭がオカシイのも、そうしたものが絡んでいるようにしか思えませんし(母が寝ている間スマホをいじっていました)、「疲れているから代わりにやって」というお願いの裏には、スマホ依存による疲れがあり、結局僕はスマホ依存の「スマホを触りたい」のために、金銭や時間や労力を奪われているということがよくわかりました。
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仲の良い夫婦 夫婦仲の秘訣は男の自信。
結局男の自信だけなんです。
ただ、状況によっては自信を喪失してしまうこともあります。
でも、妻に支えてもらおうとしてはいけないんです。
夫婦仲の秘訣は「あれこれをしてくれる」云々、「こういうところがいいと思う」云々、様々な意見がありますが、どれも本質とは異なります。男側の自信です。それだけです。その自信に根拠がなければないほどいいですね。
夫婦仲の秘訣 -
母が倒れて起こった問題の一つが、自分以外の実家家族たちの軋轢だ。
基本は親子喧嘩。ちなみに警察が数回出動している。
ゴルフクラブを振り回したりするほどの騒動だ。
近所の人の植木鉢を割ったりさ。
で、実家家族から電話があるかもしれないと思うと、毎日緊張した。
電話が来たところで解決できない問題はないし、どうということもないが、対応に時間を取られるのがめんどくさかった。
こっちにも守る家族と仕事があるんだ。
という気分。
母に関することなら彼女は動けないのだからもっと気にならなかっただろう。
しかし母が管理していた実家の家計をどう扱うかといったところで、
仲の悪い男たちがよく喧嘩になっていたわけだ。
生活費全般にわたって
「あの金は誰が払うか」
というようなことだ。
「母の年金はどのようなことになら使っていいか」という点もある。
そんな感じで月に一度は騒動があった。
母が倒れたという事実だけじゃなく、そうした人たちの都合まで自分にしわ寄せが来たわけだ。 -
デイサービスというものは、その実態はいろいろである。
どこもさほど空きがなく、母は週3回の利用にあたって、
3箇所に振り分けられた。
その事によって複数のデイサービスセンターの様子を伺うことができた。
複数のデイサービスセンター
次の3箇所
- ケアマネジャーがいるプランセンターのようなものに併設された、公的なデイサービスセンターA
- 株式会社が運営するデイサービスセンターB
- 別の株式会社が運営するデイサービスセンターC
最初は、AとBだけだったが、介護保険の枠的にもう一回くらい利用できるということで、Cが加わった。
ある意味問題になったのは母が叫ぶということ。
AとCは現地に見学も行った。
Bには行かなかった。
というより、見学に行く前にトラブルになったからだ。
母は叫ぶ。基本的には断続的に。
そして、姿勢を寝る姿勢から座る姿勢に定期的に変えないと、息が苦しいと訴える。
興奮すると叫び続ける。
そういう事もあってか、興奮した時用に頓服薬として向精神薬が渡されていた。
さらに言うと、元々脳出血で倒れているので、興奮による血圧上昇で再発のようなことが起こらないようにという意味合いもある。
という感じだが、デイサービスセンターのBは、毎回頓服を服用させて、利用時間中ほとんど眠らせていた。
夜間の中途覚醒
その影響で、夜間の中途覚醒がひどくなり、家族が疲弊した。
つまり、デイサービスセンターは日中母を向精神薬で眠らせているからこそ、夜に起きてしまうということだ。
薬を確認すると、デイサービスセンターBに行った時は毎回その頓服薬が減っていた。
「頓服と言っているじゃないか」
というと、
「叫ばれると他の利用者の迷惑になります」
という回答が来た。
それは理解できるが、薬で眠っている母は夜に起きる。
自分たちは眠らせて楽をして、夜に面倒を見る家族に押し付けているだけじゃないか。
「興奮」の定義が曖昧で結局投薬、そして夜に覚醒
「興奮」の定義を曖昧にしたということも問題だったのかもしれない。
医師の指導もあったが、結局は、そのような対応のところには預けられないという家族みんなの判断のもと、そのデイサービスセンターの利用はやめることにした。
昼に眠られ、夜に起きられると、家族は苦痛を得ることになる。
それならば、まだ介護ヘルパーのサービスを断続的に利用して、昼間をしのいでいる方がマシだ。
まあ、デイサービスセンターといえど運営は株式会社。
一応営利の追求が目的だからな。
公的なデイサービスセンターAと、別の株式会社が運営するデイサービスセンターCは、所長にも会ったが、叫んだとしても可能な限り薬の服用はしないという猛者たちだった。
彼らは服用の基準を医師と相談し、血圧や拍動数などなにかの目安を作ったらしい。
デイサービスセンターCの所長は若いがしっかりしていた。
率先して母の面倒を見てくれていたようだ。
ただ、その後そこの職員(50代)と母がトラブルになり、結局そこも行かなくなった。
結局は公的なデイサービスセンターAだけが残った。
ただ、その後母は行きたくないと言いだした。
なのでおそらく行っていない。
デイサービスセンターに行っている時に入浴するということだったが、行かないと風呂に入れない。
しかし訪問入浴というサービスはデイサービスセンターを一日利用するのと同じくらいの費用が必要になる。
そのような問題も、結構起こった。 -
ホームページの相談先と無料相談について。
無料相談を実施しているホームページ制作会社、Web制作会社に相談した場合、最終的には相談先サービスの営業を受けるだけになるのではないか?とも思います。
新規ホームページ制作やリニューアル自体が必要ではない場合があります。それ自体に検討が必要で、ホームページ自体が必要かどうか、制作・公開するとすれば、何をどの程度までできるのか?という点を再確認、再検討するとよいのではないかと思います。確かにホームページの全体像やホームページ集客の流れの把握、明確化など一定の有益な情報を得ることができるとは思いますが、結局その会社の力量と営業視点に左右されます。
無料相談で得れるもの
ホームページを利用する予定かという点によって相談内容は大きく異なってきます。
無料相談は構造上どうしても客観性に欠いたものとなるのは仕方ないと思います。
ホームページ制作・リニューアルの無料相談と有料サポート -
絶望に価値が生まれる時、それは本当に絶望しきった時。
全く望みがない状態になると思考は止まる。
思考自体に意味がなくなる。
そうなると抵抗がなくなる。
望みがあると欲や怒りとなる。
その欲や怒りが亡くなる。
五感の感覚はあるが、精神が形成する苦しみはなくなる。
そして物事はうまく展開していく。
つまり最適化か。
その時、絶望というものに価値が生まれる。
絶望の価値
しかし、絶望に価値をつけようとする期待、つまり望みが生まれると、そうした絶望には価値が生まれなくなるというパラドックスがある。
思考の面では、自我の面では、自分を取り戻すという価値がある。
世の倫理観や「うまくやろう」という思考が生む抵抗が外れる。
そうすると本来の姿を取り戻す。 -
形態素を気にしているならユニークにすればいいじゃないか。
人工知能が求めていることは正確性の精度を高めることと同時に、
今までに学習したこと以外のユニーク性である面がある。
まあ形態素解析というやつで、どれだけ頻出しているかということも重要視するが、新しい情報も欲しい、ただ、一人しか言っていない場合はほぼ無視という感じか。 -
インデックスされないならある意味思い切ってできる。
まあ多少はされているようだけど。
このドメインなんかは弱いからな。
でも、あまり見られないからこそやりやすい。
それができないなら鍵をつけてもいい。
しかしサービスが廃止されたりもするからな。
ローカルで書いてもいいが、それはまた違う。
人工知能が検索に影響を与えだしてから、
取捨選択がすごくなった気がする。
インデックス除外をよくやる。
何様感もあるが、まあ致し方ないだろう。
別に除外にしたければすればいい。
Webの面白さは、情報やユーザーとの突然の出会いという面があった。
どんどん正確性は増していくが、最適化が進むにつれて
そうした偶然の出会いのようなものは減っていくんだろうな。 -
母が倒れて自分が失ったものは大きい。
それは自分がマザコンというわけではない。
むしろかなりドライな方だろう。
娘にとっての安全基地の一つとしての祖母。
それを失ったのが一番大きい。
これは自分が倒れた時に、娘を保護してくれる親族がいると思える方が、
自分自身が安心できるという点である。
まあ細かいことを言えば、金銭面も多少は助かっていた。
娘のおもちゃとか、妻と娘とたまに自分の昼食代等々だけど。
脳出血がそのすべてを奪っていった。
奪い、失われただけではなく、
負担までやってきた。
今では、24時間、介護事業者が世話をしてくれているが、
最初の二ヶ月は、自分と実家家族と、一般的な介護サービスの利用のみで介護をしていた。
「母が消えないと、人生が終わる」
本当にそう想った。
仕事をしていられない。
かといって、実家家族だけに負担をさせると、彼らが倒れる。
まだ安心できたのは週3のデイサービスの利用時だけだった。
ゴミクズの協議会
何とか協議会はゴミクズ。
社会福祉の名の下だが、実態はゴミクズ。
自分たちの論理の押し付けだけ。
話していると調子が狂うよ。
カスだらけの居直りが多いから。