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さよなら自分

さようなら

ほとんどを出し切ったあとに思うこと
おそらく僕は、何かが限界に来て、いろいろな人を切り捨てるレベルで伝えるべきことを伝えてみたり、本当に断絶してみた。

僕は一体何がしたかったのだろう?
そして、なぜ周りは、そんな風になったのだろう?
そんなことを毎日考えて、やはり原点的なところに帰ってきた。
ただ、以前と違うのは、うまい具合に本題について回避していたところを、直視することになったということ。

やった分だけ返ってきて欲しい
とまでは思わないが、それにしても周りは酷かった。そして悲しかった。
でも、いろいろとやってみたものの、本当に忙しく立ち回っていたのか、というとそうでもなかった気がする。

昔から、何かを理由にしがちで、それは本当に理由として客観的には説明できるものだったとしても、それに関わらなかったとて、本当に人に誇れるほどの結果を出せていたかと言うと怪しい。
実際問題としては結果を出して誇る必要もなく、誰かの何かの問題に関わる必要もなかった。
それは暇だからか、と思ったが、根底には能力の高さの確認を自己肯定の条件としていて、さらに、それに届きそうもない時は、他人の問題に関わっていたということなのかもしれない。

無条件の存在肯定、に対する恐怖、それが根底にあったと思う。

それができている時も少なからずはあったが、それが叶っている時は、絶望のあとだけだった。

しばらくすると、他人を通じた安心を継続させようと、また「無条件」からは離れていった。

昔の彼女や妻を含め、女性が避けだすと、特に性的に避けだすと、僕は焦りだしていた。


それがないことは、つまり、関係の安定性を確認できないとか、そうした焦りだ。
世間的には繋ぎ止めておけない、という焦りに近いものとして説明できるだろう。
そしてどんな時でも揺るぎなく、ということを望んでいた。

それは、何か困難があったり、自分が弱ったりしても、関係は破綻しないでいて欲しい、という安心の欲求である。

よほど白けたものでない限り、性的なつながりがあれば、そうした安心や安定やつながりを確認できる。
しかしこれではやはり他者依存の安心になる。

そしてその安心を得体がために、相手に気遣うようになる。
すると相手は軽視を始める。

相手は自分の要求と自己実現のことばかりで、僕のことは二の次、三の次になる。

そうなると馬鹿らしくなり、絶望の果てにキレることになる、そうしたループが人生で何度かあった。

僕は僕自身の何を蔑ろにしているのだろう?
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