"思索"カテゴリーの記事一覧
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「あの時、失敗さえしなければ、今の自分はもっと違っていたはずだ」 「どうせまた、あのような惨めな思いをするに決まっている」過去の失敗体験が心に深く刻まれ、それが現在の行動を縛る「トラウマ」となり、最終的に強固な「劣等コンプレックス」へと変貌する――。この負の連鎖は、多くの人が抱える悩みです。なぜ、たった一度の失敗が、人生全体を否定するような劣等感へと膨れ上がってしまうのでしょうか。 今回は、過去の失敗体験がトラウマ化し、劣等コンプレックスとして定着してしまう心理的メカニズムと、その呪縛を解くための視点について解説します。「あの日の失敗」が今のあなたを縛る理由:トラウマと劣等コンプレックスの蜜月関係1. 「行為の失敗」を「存在の失敗」にすり替える罠失敗体験が劣等コンプレックスに変わる最大の要因は、心理学でいう「過度の一般化(Overgeneralization)」にあります。本来、失敗とは「ある特定の行動が、ある特定の状況で上手くいかなかった」という事実(出来事)に過ぎません。 しかし、心に傷(トラウマ)を負いやすい人は、この事実を拡大解釈してしまいます。事実: 「今回のプレゼンで噛んでしまい、笑われた」一般化: 「私は話すのが下手だ」存在の否定: 「私は人前で恥をさらす、ダメな人間だ」このように、「やり方が間違っていた(Doing)」という反省で留めず、「私という人間に価値がない(Being)」という人格否定に結びつけてしまうのです。 たった一度の失敗が、「私は〇〇ができない人間だ」というレッテル(自己定義)に変わり、それが劣等コンプレックスの核となります。失敗体験が強烈であればあるほど、そのレッテルは強力な接着剤で心に貼り付き、剥がせなくなってしまいます。2. トラウマによる「時間の凍結」強烈な失敗体験(恥、恐怖、挫折)は、脳の扁桃体を刺激し、記憶を強烈に焼き付けます。これがトラウマです。 トラウマの恐ろしい点は、「過去の出来事を、まるで今の出来事のように感じさせる」点にあります。10年前の失敗であっても、それに触れようとすると、当時の動悸や冷や汗、恥ずかしさが鮮明に蘇ります。 心の中で時間が止まっているため、「今の自分なら対処できるかもしれない」という成長の可能性を考慮できません。「あの時の無力だった自分」のまま、現在の課題に直面していると錯覚してしまいます。この「更新されない自己イメージ」が、慢性的な劣等コンプレックスを維持し続けます。「自分はあの時から変わっていない=劣ったままだ」という思い込みが、現実の行動を阻害するのです。3. 劣等コンプレックスという「防御服」アドラー心理学の視点を取り入れると、さらに残酷な真実が見えてきます。 人は時に、無意識のうちに**「これ以上傷つかないために、劣等コンプレックスを利用する」**ことがあります。過去の失敗体験があまりに痛かったため、脳は「二度とあんな思いをしたくない」と防衛本能を働かせます。そこで、「自分には能力がないから無理だ」という劣等コンプレックスを盾にするのです。「私には才能がない(というコンプレックスがある)から、挑戦しない」「過去にトラウマがあるから、できなくても仕方がない」こうして自分を「劣った存在」と定義しておけば、新たな挑戦を回避する正当な理由が得られます。挑戦しなければ、失敗もしないし、傷つくこともない。 つまり、過去の失敗体験を根拠にした劣等感は、「現状維持のための安全装置」として機能してしまうのです。これが、劣等コンプレックスがなかなか解消されない最大の理由です。苦しいはずの劣等感が、実は自分を守ってくれているという矛盾した構造(疾病利得)がここにあります。4. 学習性無力感との関連「何度やっても無駄だった」という経験の繰り返しも、深刻な劣等コンプレックスを生みます。これを「学習性無力感」と呼びます。努力が報われない経験や、理不尽な理由で否定された経験(理不尽な叱責、いじめなど)が積み重なると、人は「自分の行動によって結果を変えることはできない」と学習してしまいます。 これが定着すると、客観的には成功できる能力を持っていても、「どうせ自分なんて」と最初から諦めてしまうようになります。 これは能力の欠如ではなく、「自分には状況を変える力がない」という誤った信念による劣等感です。過去の「どうにもならなかった記憶」が、未来の可能性を塗りつぶしてしまうのです。結論:過去の「事実」と「解釈」を切り離す過去の失敗体験とトラウマが劣等コンプレックスを作るプロセスは、自己防衛の一つであり、ある意味で人間として自然な反応です。しかし、その「守り」が過剰になり、あなたの人生を窮屈にしているなら、その鎧を脱ぐ時です。重要なのは、**「失敗したのは『方法』であって、『私自身』ではない」**と切り分けることです。あの時は、準備が足りなかっただけかもしれない。あの時は、環境が悪かっただけかもしれない。あの時は、まだ若くて未熟だっただけかもしれない。過去の失敗は、あくまで「その時のデータ」に過ぎません。「今のあなた」の能力や価値を決定づけるものではないのです。トラウマによる「恐怖」を感じたとき、「これは過去の幽霊だ」と気づいてください。「怖がっているのは、あの時の子供の自分であって、今の大人になった自分ではない」と言い聞かせてください。過去の失敗を「自分のダメさの証明」として使うのをやめ、「次はどうすれば上手くいくか」という「ただの経験データ」として扱い直すこと。 その解釈の転換ができた時、過去の呪縛は解け、劣等コンプレックスは「慎重さ」や「改善への意欲」というポジティブな力へと昇華されていくはずです。PR
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とにもかくにも一難去ってまた一難感がある。
そういう情報を壊したい。というより壊す。
何のために頑張るのだろうという気分が毎日続く。
何のためにということはないが、他人に吸い取られている気がする。
やったあとに自分には何も残らない。
それどころか痛みがやってくる。
単純に言うと
1000円募金して殴られるような気分だ。
頭がかゆい。
そしていろいろとやってみるが、
結果は出ない。
やればやるだけ損した気分になる。
とにかくそんな気分をどんどんと出していこうと思う。
集客界隈では、動画が盛り上がっているようだ。
実際に集客効果があるわけではない。
でも期待値だけで盛り上がっている。
本当に効果が出る場合もあるが、極めて個人向けによっているものに限定される。
この期待値はどこから来るか?
簡単だ。
何をやっても響かないからだ。
5分ネタを5分で作れるわけはない。
そんなことを松本人志が言っていた。
でも世の中のコンテンツ消費速度は速く、
出してもすぐに消費されて終わる。
そして良いものを丹念に作っても、
AIで模倣したようなものに追い抜かれる。
結局数が勝負のようなことになる。
それか、極めて自分を抑えてトレンドに合わせるかだ。
可処分時間をどれだけ奪うか、というようなことが話題になる。
つまり、自分は1時間費やしたとして、他人の時間を合計で100時間奪うものが勝者のような世界。
これは、世の中の人をタップさせるだけの人生になる。
で、何だ?
その先に何がある?
かといって、まともな話は通じない。
普通の文を読み解けない人が増えているからだ。
それどころか、簡単操作のUIを組み込んで、さらに褒めないとその次にも進まない。
完全なるスマホ依存、脳が壊れている。
しかし、そうした人ばかりになると、狂っているのは自分のほうだとみなされる。
このような世の中に、生きる意味を見いだせない。
それが本音だ。 -
哲学っていう言葉を聞くと、多くの人が「難しい」「よくわからない」「頭の良い人がやるもの」というイメージを持つと思います。実際その通りで、特に西洋哲学の世界は、専門書を一冊開いただけで意味が取れない言葉の洪水に飲み込まれるような感覚になることが多いんです。例えばカント。哲学をかじった人なら一度は名前を聞いたことがあると思いますが、彼の代表作である『純粋理性批判』なんて、最初のページからして抽象的で、読む側の頭を容赦なく試してくるような本です。
哲学 philosophy
なぜそんなに難しいのかというと、そもそも哲学が扱っているのは「人間の理性」「世界の成り立ち」「真理は存在するのか」という、日常生活で答えが出ない大問題だからです。たとえば科学なら「実験をすれば結果が出る」し、数学なら「証明すれば正解が確定する」んですが、哲学はそう簡単には片づきません。同じ問いをソクラテスが考え、プラトンが考え、アリストテレスが考え、その後も中世の神学者や近代の哲学者たちが延々と受け継いできたわけです。つまり「終わりのない問い」をあえて相手にする学問なんですね。カントが難しいとされるのは、その問いに対して「人間の理性がどこまで可能で、どこからが不可能なのか」という境界線を真剣に見極めようとしたからです。例えば「私たちが世界を知るとき、その世界は本当に“そのままの姿”で存在しているのか、それとも人間の頭の中で加工された姿しか見えていないのか」という疑問があります。カントは「物自体」という概念を立てて、それは人間の認識の枠を超えて存在しているけれど、私たちは決してそれを直接知ることはできない、というような結論を出しました。これは直感的には理解しづらいけれど、確かに考えてみれば、人間の五感や思考というフィルターを通さないで“純粋な世界”を見ることなんてできないんですよね。ただ、こういう議論は言葉のレベルで非常に繊細で、ちょっとでもニュアンスを誤解するとまるで違う意味になってしまいます。哲学者たちはそのリスクを避けるために、独特の用語や、非常に厳密な論理展開を使うので、読む側としては「翻訳を二重に読まされている」ような気分になるんです。ドイツ語の原文を読めばもっと難しい。だから「哲学は難しい」という印象がどんどん強まってしまうわけです。でも、難しいからといって無意味かというとそうではなくて、カントの思想は後の哲学や社会の考え方に大きな影響を与えています。例えば「自由とは何か」「人間の尊厳とは何か」という議論は、現代の人権意識や法律の考え方にもつながっています。つまり、哲学は一見すると実用性がないように見えて、実は社会の根っこを支えているんです。ただしその影響は時間をかけてじわじわと現れるので、現代人からするとピンとこないことが多い。これもまた哲学が「難しい」と感じられる理由のひとつだと思います。西洋哲学の難しさは「テーマが根本的すぎる」「言葉が抽象的すぎる」「結論がすぐには出ない」という三重苦にあると言えるでしょう。けれど、その難しさを少し我慢して向き合うと、自分の考え方の枠組みが広がるような感覚が得られるのも事実です。哲学を読むことは、知識を増やすというよりも、自分自身の考える力を鍛えるトレーニングに近いのかもしれません。だから「カントは難しい」と思いながらも、彼の本を開く人が絶えないのは、その背後に「人間とは何か」という終わりなき問いが、私たちを引きつけ続けているからなのだと思います。 -
絶望に価値が生まれる時、それは本当に絶望しきった時。
全く望みがない状態になると思考は止まる。
思考自体に意味がなくなる。
そうなると抵抗がなくなる。
望みがあると欲や怒りとなる。
その欲や怒りが亡くなる。
五感の感覚はあるが、精神が形成する苦しみはなくなる。
そして物事はうまく展開していく。
つまり最適化か。
その時、絶望というものに価値が生まれる。
絶望の価値
しかし、絶望に価値をつけようとする期待、つまり望みが生まれると、そうした絶望には価値が生まれなくなるというパラドックスがある。
思考の面では、自我の面では、自分を取り戻すという価値がある。
世の倫理観や「うまくやろう」という思考が生む抵抗が外れる。
そうすると本来の姿を取り戻す。 -
妻への絶望について。
愛別離苦なのか怨憎会苦なのか、いやどちらもだろう。
かつては育児に対して尊敬の念も持てた。
少ない睡眠時間の中、母乳を与える姿なんかは特にね。
それがあれば、夜の生活がなくても、受け入れることはできる。
家事が追いついていなくても、全く気にならなかった。
しかし、問題は幼稚園に入ってからだ。
時間も体力も余裕ができた。
しかし結局、ママ友との交流、クラブ活動を優先し、
挙げ句は子どもよりママ友とのLINEを優先する。
もしくはメルカリ。
メルカリやLINEに集中したいからと、娘を蔑ろにする。
かまって欲しさに子が声を上げても、子に怒り出す。
そんな中、こちらはもっと適当に扱われる。
そんなのは限界だ。
かつては愛を持てた。
しかし、今はどうだろう。
クソマンのサゲマン。
自己評価を下げる存在でしかない。
たしかに多少の労力はマシになっている。
しかし、意識の矛先はどこにあるのだろう。
結局は何かしらの世間体。
なぜ、家族を最優先にしないのか。
それは面白くないからだろう。
ただ遊んでいるだけじゃないか。
一度はっきりと言った時、妻は発狂した。
「ああああああ」と叫んで、泣いていた。
改心したかと思ったが、そんなのは数ヶ月だけの効力だった。
正直めんどくさい。
ただ、好きになれと言って好きになってもらうというのは違う。
子をもっと好きになれと言っても、本心が違うのなら、どうせ嘘になる。
カネの面も労力の面も限界まで費やしたつもりだ。
それでも余裕ができて遊ぶだけなら、
ナメられているとしか思えない。
どうせいざという時に何もしてくれないような人脈もどきを優先するというのはおかしいが、そっちが好きならそっちに養ってもらえ。
もう、女としても要らない。
クソマンのサゲマンだからな。
そんなことを思いたくはないが、それが本音だ。
愛するものと分かれる苦しみ、
そして毎日のように嫌いなものと会わねばらぬ苦しみ、
その両方だ。
相手に変わってくれというのはおこがましい。
しかし、自分と子のためには、どうにかするしかないと思っている。
そんなことを考えさせないでくれ。
普通に夜も心置きなくガンつきできればいいんだが、
ハイコストローリターン。
割に合わない。
気兼ねなしにすべてのことが運ぶようになってくれ。
もうそろそろ限界だ。
そんなことを思って何年何ヶ月だろう。
少しマシになるかな、なってきたかなと思うと、
何かしらの理由ですぐに駄目になる。
相手の人格なんて気にしたくないんだ。
こんな人生は真っ平だ。
毎年冬になると、この世から去りたくなる。
「愛別離苦」愛するものと別れる苦しみ
「怨憎会苦」嫌いなものと会わねばならぬ苦しみ
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真面目の仮面をかぶった怠けという見方がある。
真面目と怠惰という対義概念があるが、実は真面目に見えて大怠けであるという場合もある。
真面目と怠惰
逆説的な怠惰といったもの。真面目で誠実に見えて、それに甘んじることで本質から目をそらしているということもある。本質から目をそらし、何かをやるのは嫌だというのを真面目という部分でごまかしている場合だ。 -
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なんとかなる、うん。なんとかなる。
自我とのバトル。
「なんとかなるという証拠を見せろ」というのがアイツこと自我なぜですか?なぜ証拠を見せろ、ということになるのでしょうか?安心したいからいつ?今ですね。「今すぐに安心したい」ということ。「今も、そして未来も」、ひとまずは「今すぐに」とか「可能な限りすぐに」ということを思っています。
なんとかなる
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ヴァルター・ベンヤミンが「複製技術時代の芸術」で提唱したアウラとアウラの喪失の概念。
アウラとは、作品に宿る「神性」のような観念的なもので直接的に具体化されていくに従いそうしたアウラは失われていくというアウラの喪失という概念で示される。
アウラ(アウラの喪失) -
京都は皮肉が多い、そして皮肉が多いことで腹黒い、「京都人は排他的」などと言われている。
しかし、そんな皮肉は相手を攻撃するためでも、なんでもない。
京都弁、京ことばには皮肉を込めた面白い表現がたくさんあるがこれは、京都人同士であることの確認に加え、見栄っ張りを排除して、京都ブランドを利用して自尊心を高めようとしている者への警鈴を示すためのものなのだ。
京都人の皮肉 -
人を殺してはいけない理由。「なぜ人を殺してはいけないのか」 と聞かれたら何と答えますか?なぜ人を殺してはいけないのか?」の疑問には誰も答えられない?人間を本当に殺しちゃダメなのかは難しい問題。いろいろ理屈を突き詰めていくと「人を殺してはいけない理由」がなくなる。しかしそれは社会的な理由。自分自身がなぜ人を殺してはいけないのかの理由については別件。
「人を殺さないと落ち着かない」という意識的な衝動こそが苦しみであり、それを行動として起こさなければ、自分の心は落ち着かないという条件状態こそが、あなたを苦しめる 不殺生戒と人を殺してはいけない理由
これが人を殺してはいけない理由の正解。 -
先祖の数を計算してみると計算するとすごい数になる。代替わりの周期、どれくらいのスパンで世代交代するかという設定にもよるが先祖の人数を計算していくと天文学的な数字になっていく。想像もできない数の先祖の遺伝子を受け継いでいるということになり膨大な数の先祖が遺した情報が体に刻まれていると思うと凄まじさを感じる。
先祖の数は想像できないほど多い -
心の声は、積極的な短文を用いてある程度言語的制御することができる。
しかしながら制御を必要とするというのも何だか変な感じがする。